私解 1972 年 龍的電影




またもや、私ちゃお・めいの
私的解釈などもふんだんに織り交ぜちゃったりして勝手にまとめてみました。


1972年5月〜10月
李小龍興丁珮
珍貴紀録片
女活殺拳
合気道
ドラゴンへの道
猛龍過江
麒麟掌
獨覇拳王
死亡的遊戯
李小龍
小麒麟
 
苗可秀

師父の教えは・・

僧侶の教えは・・
池漢載
   
黄仁植
 
金帝
 
魏平澳
   


「麒麟掌」の時のウォン・インシックさんの前髪が短い!。↑

李さんが訪問頃は、前髪がまだ長かったのに・・・。



2000年頃 or 近影
池漢載
黄仁植
金帝
苗可秀
李小龍



ところで・・・、


麒麟掌のトレーラーに ・・とありますが、 麒麟掌と”ドラゴンへの道”は姉妹作

この人 ⇒
ローマからの帰港時の空港に・・・


「獨覇拳王」(「麒麟掌」)の製作発表パーティーに・・・


「ドラ道」セット↑や再び、啓徳空港にも出没・・・↑


当然ながら「麒麟掌」のセットにも・・

って事は、「星海影業」の社長か幹部だと思われますが、
この時期、「危機一発」「怒りの鉄拳」の大ヒットでスターに上り詰め、「コンコルド」を設立した李さんに、
その李さんの親友、小麒麟さん主役で映画を製作する話しで頻繁に接触してきていたという事でしょうか。
「ドラ道」と「麒麟掌」の撮影時期は極めて近いと思われますし、出演者もダブっている役者さんも多いのですが、
「麒麟掌」の香港公開は、
「ドラ道」が公開(1972.12.30〜1973.1.24)され、「怒りの鉄拳」をも上回るヒットをした一ヶ月後の、
1973年3月1日〜11日だったそうで、まさしく「星海影業」の思惑通りの、「猛龍過江」の”姐妹作品”だったと言えます。
また、一俳優(李さん)と製作者(星海影業)との関係ではなく、製作者同士の関係として星海影業側と
付き合わざる得なかった意味では、星海影業の言うところの”姐妹作品”も全くのハッタリではないような・・・。
これは、後の映画クローズ版「死亡遊戯」では無いけれど、
1972年は、李さんが香港映画界での映画製作人として矢面に立っていった始まりでもあったのでしょうか。








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