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1981年春

前年(1980)の春からここまでの一年あまり、月刊ロードショー誌などの映画雑誌に代わり

リーさんのレアな(中文の和訳)記事などを毎月届け続けてくれた”イエナ ブルース・リー クラブ”から、

会員のみんなに「SPECIAL PHOTO COLLECTION」というPHOTO集が配布され



李さん人気のかげりに一石を投じた感はありましたが、第二期(半年更新)の会員数の減少は深刻だったようで

そんな私もどうゆう訳か三期会員の更新はせず、手元には”PHOTO集が配布”の翌月の会報までしかありません。

なんともこの頃って、1974年からや1978年からの龍迷のみなさんの多くもそんな感じの時代だったのでしょうか。

しかし、”死亡遊戯2”とか”死亡塔”とか言う李さん映画の情報も前の年の暮くらいから

ロードショー誌等にもあったのですが、何故かこれまた胸躍るようなワクワク感は感じられず、

個人的には前年の春と同様に・・、いや前年以上にこの春はあらたな生活に入った頃だったと思います。

それでもそんな毎日の中、朝夕の通勤電車の車窓から見える映画館の看板に「死亡の塔」の絵がお目見えして、

やはりどうにも気になって、しばらくした休日に定期券で途中下車して「死亡の塔」を見に行きました。

事前に映画の内容などあまり詳しく読まず出掛け、勿論大きな期待は持たずに見たのですが、

未公開映像の量や質とか、映画のストーリーとか・・、なんだか大きな落胆も無かった気がします。

ただ、”あぁ、もうこれが最後かぁ、無理に絞り出したなぁ”と言う感じだったような・・。

また、パンフレットは映画館で購入しましたが、それまでの映画のようにサントラ盤を買うような事もなく

過ぎ去っていった気がします。

確かロードショー誌も「死亡の塔」公開後の号で付録に“ポートレイト・コレクション”があったあたりで

6年以上続いた私のロードショー誌の購入もこの頃に止まったと思われます。


1981年夏

私の中には、1976年の「燃えよドラゴン」のリバイバル上映後にあった李さん熱下降時期から、

リーさんと並ぶ両輪のもう一つの、”THE BEATLES”と言う車輪が出来ていて

この1981年夏頃にいよいよ”ビートルズ・シネ・クラブ”に入会、途中退会時期はあったものの

残りの80年代を”ビートルズのブートレッグ(海賊盤)道”に精進して生きてたような気がします。




一方、この年の年末いよいよ私にもビデオという”20世紀末の神の器”の時代が到来しました。

忘れもしない、1981年12月31日松下製のビデオデッキを購入!、さっそくその日の夕方に初録画したのが

ロンドンからの生中継で写し出され1曲歌唱したノーランズの姿でした。(現地からは荒井注氏が進行)

また、たまたま新年明けてすぐだったかに映画「LET IT BE」の放送を録画出来た!のでありました。


1982年新春〜

ってな訳で、70年代半ばに夢に見たビデオ生活が1982年新春から本格的にスタートし、

これで動くリーさんも撮ろうと思えば撮れるんですが、そうタイミングよくテレビの映画劇場での

李さん映画の放映もなく、勿論国内でのビデオソフトもまだ発売されていないような時代でしたし、

ましてや超高価な輸入ビデオソフトなんぞの存在の有無(「燃えドラ」はあったかな?)や資金もない状態でした。

また、ジャッキーやサモハンもそろそろ人気が本格化する頃でもっと他のカンフー映画のテレビ放映にも

気を配って興味を持っていたら、李さんのグンフーに限らず多くのカンフー映画の録画も残ってたかも・・?

ですが、当時はまだそこまでの悟りの境地にはたどり着いていませんでした。(辿り着いたのは極最近かな^^)

そこで思いついたのが、当時量販店などであった”8mmフィルム→VHSビデオ変換サービス”でした。

私が以前購入していた「燃えドラ」トレーラーやらメイキングの8mmフィルムを

このサービスを利用してビデオテープにしてしまえ!と言う反則な作戦です。

とは言えその為にはその量販店チェーンの本店クラスに行き、量販店の”ビデオ友の会”みたいなのに入会、

勿論ここで言う変換対象の”8mmフィルム”とは家庭用8mmカメラで撮影した個人のファミリー映像であって

私みたく市販のトレーラーやらメイキングの8mmフィルムでは無い訳で・・、これまた以前に購入してて

ここに至までその再生の目途もたっていなかった8mm版の「ドラ道(短縮版)」の変換までは



(↑8mm版「ドラ道(短縮版)」は、2017年になって初めてその内容を知りました!^_^;)

流石に店員さんの手前、躊躇しざるを得ない状況ではありました。

でも、変換に成功した「燃えドラ」トレーラーやらメイキングは初めて見る映像で、

つくづくこの新しい時代のビデオと言う神器の恩恵を実感出来た瞬間だったと思います。

その後、この”「燃えドラ」トレーラー&メイキング8mm自前変換ビデオ”に

他のクンフー映画のトレイラーも収録した市販ビデオ(This is BRUCE LEE)を

李さん関連としては初めて購入しました。



テレビ映画劇場の李さん映画の録画はこれより3〜4年はかかったように思います。

もちろんこの頃はまだ4:3画面にモノラル(日本語吹替のみ)音声録画で、

ビデオテープもまだまだ高価でしたので3倍録画、そして当時住んでいた住居のテレビは室内アンテナ・・

とよい条件ではありませんでしたが、1985年頃には「グリーン・ホーネット」の放送もあり

前記の通り決してよい画質ではなかった上、全話録画も逃しましたが、

70年代には想像もしなかった、李さん動画映像の手元アイテムを増やしていく事が出来ていました。

しかし当時バチ当りな事に、その録画ビデオテープを擦り切れるほど見倒すって事も無かったような・・。


確か、1986年頃にはレンタルビデオ店なるものも巷に出没しだしましたが、

この時点で画質は別としてある程度李さん映画をTV録画済みであった為か、

李的なレンタルビデオがお店に在るのか?無いのか?と言う事すら確認もしていませんでした。


そして・・、あれは1987年だったでしょうか、久々に70年代のかつての李さん戦友と電話で話していて

その戦友が「”怒りの鉄拳”のビデオ見たんだけど、それが中国語でなんとお座敷ス○リップもあった・・」

なんていう衝撃的な証言をもらい、私にはにわかに信じ難い話しだったのですが、

早速ビデオを借りて見てみると、「ホンマや!昔見たモノと違う。OPが絵やし、こんなお座敷やったんやぁ〜・・」

とまぁ、ようやくその事実をこの目で確認したのでありました。

さらにこの時だったかこれより少しあとだったか、記憶は定かでは無いですが

この時期初めてビデオ「ブルース・リーの神話」も借りて見て、

あの本編の「死亡遊戯」の未使用映像と、エンディングのブルースハープの曲に映し出されるNG集に遭遇して

遅ればせながら80年代に入ってからの最大の”李的衝撃!”に腰が抜けてしまいました。(^_^;

でもその衝撃をより大きく増幅させたり長く持続する術が当時周りには無かったように思います。


また、音の世界ではレコードからCDへの移行がなにか大きな力が働いていたかのように急速に進んだのもこの頃で、

あれから30年程が経ち、今は再びレコードが復活して来てますが、当時の雰囲気は、

CDのそのコンパクトで手軽に良い音が聞けるという期待で、輝かしい新時代の到来を誰もに感じさせたもので、

そのジャケットも楽しみのひとつだったビートルズのブートレッグなどもCDへとなっていき音質の向上も謳われ

(元来ブートレッグには音質は期待出きるものでは無かったですが・・)小っちゃく寂しい感じへとなって行きました。

また正直、私的にはリーさんのサントラレコード等は何年も針を乗せる事は無くラックの右端にかためられてあり

世間的にもこの時代、李さんのCD化の気運はまだまだ無かったと思います。

李さんの市販、或いはレンタルビデオは公開当時のVerでは無い事は判明していてレコード音源は貴重ではありましたが、

これらレコードは、プレーヤーや針の老朽化などから聞きたくとも聞くのに苦労する時代へとなっていきます。


そして映像面では、私は80年代最後の年にようやくダブルビデオデッキ(ビデオ2台)時代を迎え

ダビングという新たな手段を手に入れたのですが、「ブルース・リーの神話」以上のあらたな李さん映像が

ぞくぞくと出て来る訳でもなく、また前記のように公開当時の英語バージョンでは無い事もあってか?

そのダビング手段を駆使する場面もそう多くも無く90年代を迎えようとしていました。


1989年〜1992年

一方、私的にもう一つの車輪でありますビートルズ関連では、1990年を跨いで奇跡のような盛り上がりがあり、

私も結構そちらの渦に心も身も大きく委ねていました。(^^ゞ

それはビートルズ・メンバーの毎年の来日公演で、私のごときも城ホールにて

1989のリンゴと1991のジョージ&クラプトンの公演を生で見、1990のポールの公演はパブリックビューングで見る・・

といった感じで今思えば、これまた夢のよな3年間を過ごしたように思います。

その大きな余韻は翌年1992年にも続き、正規盤をはじめブート・ビデオやCD購入のひとつのピークを迎えていました。


1993年

そんな中の1993年の春、”ブルース・リーの息子、ブランドン事故死”という突然のニュースに愕然としました。

当時確か、ブランドンがその何年か前から映画に出演していた事は承知していたとは思うんですが、

どんな映画に出てたのか?、或いは数年前には来日してた・・などの事実はほとんど知りませんでした。

しかし、その「死亡遊戯」のストーリーを思わせる映画撮影中の、全く現実とは考えにくい事故?に

私ごとき者でも何とも言い知れぬ暗く重たい悔しさと不条理を感じたものです。

この年はちょうどブルース・リー没後20年、

更にハリウッド映画「ドラゴン/ブルース・リー物語」の公開も控えていた矢先でしたので

皮肉な事にこのブランドンの事故は、この年から起こる世界的なブルース・リー復活に

大きく影響したと思われます。


そして私は、ブランドンの事があったからって訳ではないのですが、

それから3ヶ月程経った1993年6月にロスに行く機会を偶然得ました。



とはいえ、ユニバーサル・スタジオで「ドラゴン/ブルース・リー物語」の特大ポスターを見、

チャイニーズ・シアターへつづくウォーク・オブ・フェームで

当時まだ出来立てだった”BRUCE LEE”の星型プレートを生で見たくらいで

滞在先でリーさん関連の現地の書籍やビデオを探索したわけでもなくおとなしく帰国してしまったのでありました。

そして8月、もちろん日本公開された「ドラゴン/ブルース・リー物語」を見に行きました。

挫折と成功の裏に何か得体の知れないものとの闘いがあった・・少し抽象的な表現ではありましたが、

私の中で10年以上眠っていたブルース・リーが映画館で確かに甦った感はありました。

9月には「知ってるつもり?!」でブルース・リーが取り上げられ、初めてトレーニング中の白黒動画を見ました。

今振り返ってもこの時期日本のTVで”ブルース・リー”の新作特集番組が見られるなんてっ!凄い事だったと思います。

たぶんこの時の映画公開とテレビ特集で、緩やかにしかし確実に80年代初頭から永らく続いた

李さん冬の時代の雪解けが始まった瞬間だったのではないかと思います。

この復活のかたちで特徴的だったのは、おそらく・・・そこんトコは私的にはトンとウトイ所ではあるのですが、

いわゆるアクション俳優ではあるが”武道家であった”という路線を大きく紹介する事が目立っていたような気がします。

それは当時人気の出始めていた格闘技の影響があったからでしょうか。

事実、時系列的はもう少しあとだったかも知れませんが、格闘技雑誌の表紙を飾る事も多く見受けられました。

いずれにせよその後、記録を紐解けば「燃えドラ」の映像や音楽がCMに使われ(個人的には記憶薄ですが(^^ゞ)、

そのうちWindowsやインターネットの普及もあってか1996年頃からは70年代を思わせるほどの数の書籍類も刊行され、

今では伝説となった本もこの時期多く含まれていたと思います。



またあとでビデオなどで見る事となる海外製ドキュメンタリーの多くも1993年頃からぞくぞくと制作され

その盛り上がりは世界的で、香港中国返還の1997年から更に1998年のリーさん没後25周年へと続き、

その1998年には「燃えドラ」25周年記念スペシャルエディション(まだビデオ)も発売され、



(以後、30年記念はDVDの赤盤、40年記念はブルーレイの青盤でした!^^/、45年は??)

また、新グロモントのTV-CMにも「ドラ道」の映像が使用されるという快挙もあり、更には

長年未公開だった「ブルース・リーの生と死」も劇場公開〜ソフト化などなど・・80年代には考えられない事でした。

HPの世界では先駆者の諸氏のコンテンツ上では様々な写真や情報が交わされ盛り上がりを見せ始めていました。

映像では、ネット上それまで簡単には見られなかった動画等もまだサイズや画質は小さいものの見受けられ、

光ディスクメディアとしては、香港製VCDなどが手軽にPCなどで見られるようになり、

私などはせっせと元町の香港王へ通い始めました。

そのうち香港やニュージーランド制作のドキュメントに今まで見た事のない「死亡遊戯」の映像が含まれるようになり

極めつけは、「死亡遊戯」の未公開フィルムが発見された!というニュースで以後その話題で一色となり、

遂に日本からはその未公開フィルムを観賞するツアーも行われ(2回)益々盛り上がったのでした。

私などもその観賞レポートなどを食い入るように読んだものです。(^^)/


2000年

そしてなんとその「死亡遊戯」のフィルムを使っての「死亡的遊戯」の制作発表〜完成!。

1993年の再熱からあれよあれよと時代は動きリーさんの新作映画が製作されるまでに至ったのでした。

まぁ考えてみればこの90年代の再熱は、74年の第一次ブームから78年の「死亡遊戯」、

そして「死亡の塔」公開あたりまでを繋げた期間と同じくらいの長さ(約7年半)だったと思いますが、

やはりこの90年代のブーム?は、その情報量が70年代とは大幅に違いまたいろんな要素が奇跡的に重なり合い

奇しくもリーさんの生きた同じ世紀中に生まれるべくして生れて来た気運だったと感じます。

そして私は新世紀の2001年2月にその「BRUCE LEE in G.O.D 死亡的遊戯」を映画館で無事観賞!する事が出来、

その夏には、もう本格的に移行したDVDで入手、同時期にアメリカで製作された「ウォーリアーズ・ジャーニー」も

秋には入手出来て「死亡遊戯」フィルムの大きな動きは一応の終息を見る事となります。


そして、2000年代のネットの世界では老舗のHPの皆さんに加え、美しく個性あふれるHPの皆さんも参加され

まだあるの?というくらいの見た事のない写真の公開や知らなかったマニアな話題などがネットを賑わせていました。

また映像では国内外のDVDも比較的手軽に購入できる時代となり、

私なんぞはソックリーさんや他のG・ハーベスト作品の楽しさにハマる始末でした。(^^ゞ


そして今は、この70、80年代には無かったネットというツールでリーさんの今まで見た事のない映像や画像が、

まだまだ発掘され見られる事を期待しつつの今日・・って感じでしょうか。

今後、少なくとも李さん直撃世代のみなさんが現役の間は

このネットというツールがある限りもう80年代のような冬の時代は来ないと感じます。



てな訳で、こちらの”グンフースーパーアクターとの私的遭遇V”では1981年から30年余りを駆け足で振り返り、

1974年夏の”グンフースパーアクターとの私的遭遇T”から

今日までの43年間の”私的遭遇”の小記録(?)が漸く今日に追い着きました。

そして私はまだまだこの遭遇の旅が続けられればいいなぁと願う次第です。





m(_ _)m






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