福井鉄道 南越線

福井鉄道 南越線 (武岡軽便鉄道<株> → 南越鉄道<株> → 福井鉄道<株>)は、

大正3年(1914)1月28日、武岡軽便鉄道として 新武生〜五分市 間が開通。
大正3年(1914)5月20日、五分市〜粟田部 間を延伸。
大正4年(1915)8月25日、粟田部〜岡本新 間を延伸。
大正13年(1924)7月、標準軌間に変更、翌8月には岡本新から戸の口まで延長。
昭和20年(1945)、福井鉄道(株)となり、昭和23年(1948)3月、電化となる。

昭和46年(1971)9月1日、粟田部〜戸の口 間が廃止。
昭和56年(1981)4月1日、社武生〜粟田部 間も廃止となり
南越線は、この年まれにみる豪雪であったその雪解けと共に67年の歴史を閉じた。










嘗ての南越線社武生駅の西側、JR武生駅東西連絡橋を出発!。



連絡橋は平成の完成ですが、福武口や北府方面が望めます。



連絡橋を降りJR武生駅東側、嘗ての南越線『社武生駅』跡は、



自転車置き場と長細い小公園になっています。



社武生駅跡から北進すると程なく『福武口駅』跡、
こちらも自転車置き場となっています。



福武口駅跡の北側の南越線廃線跡は、
福井鉄道福武線とJR北陸線が平走します。



更に鉄路跡を北に進み (福武口ー北府 間)、



『北府駅』跡に到着。そして日野川の車道万代橋を潜ります。



その先の軌道跡は、会社の敷地に取り込まれています。



かつての南越線の『日野川橋梁』全景・・・。



今は”はちまんほどうきょう”となっています。(現在も単線幅^^)



”橋梁”を渡りきった所から進行方向の東を望む。



暫く進むと左手に車両の先端が見えて来ました。
こちらがかの有名な車両を保存の『村国駅』跡です。



歴史ある車両を見られ廃線跡の道標にもなっていて、
”南越線遺産”として私みたいな初級者にもありがたいです。



やがて軌道は現国道8号と交差(廃線当時まだ8号はここに無し)
更に現交差点から緩やかに東南方向のお店やその先の工場へ。



探索は現道路に沿って東進し右折、”塚町南”バス停より
さらに南に入ります。すると・・・o(^-^)o。



これまた有名なコンクリ製の橋台跡と、



農道っぽく一部残っている軌道跡が工場から東南に伸びてます。



そして、橋台跡から小川と道路を挟んだ少し行った所が、
『塚町駅』跡だそうです。




塚町駅の先の軌道跡を北陸自動車道が跨いでいます。
北陸道の武生ー福井間の区間開通は1976年。
76〜81年は南越線が此処をくぐってました(たぶん)。(^^)



北陸自動車道をくぐって東南、今来た塚町駅方面を望む。




北陸道をくぐって直ぐが南越線『北村駅』跡です。
この先(東側)が「北陸新幹線」の経路予定だそうです。



北村駅を出て更に東南に進み、



集落を抜けると・・、農道のような畦が見えてきます。



と、暫く進むと木製の小橋が整備されていて、





小橋の上には、”電田(でんでん?)ひろば”と称され、
南越線の歴史を記した看板があります。
そして更に畦を進むと・・・、(^^)/



南越線廃線跡のクライマックス?!、



南越線”浅水川橋梁”に遭遇!します。



制作年=昭和42(1967)年12月、2代目橋梁でしょうか。
現在、制作年から50年以上でそのうち現役は13年半くらい?。



廃線から37年、鉄橋の向こう岸は鎮守の森のように
木が茂っています。



浅水川橋梁の向こう側に回り込んで、
先ほどの向こう岸だった鎮守の森方向、軌道跡を振り返る。



そして、五分市方面の軌道跡も望む。
正面に小さく工場の白い煙突が見えます。



南越線廃線跡と北陸自動車道武生インターから真東に延びる
主要道が交わる手前に、またまた有名な、



小川を渡る橋梁(?)も健在です!。




上記主要道を渡り、再び五分市方面の軌道跡を望む。




田中の一本道の軌道跡を進み、
やがて踏み切り跡?に到達。



さらに工場を右手に東南から東進すると・・、



南越線『五分市駅』跡に到着です。



南越線廃線跡中、最も大きく詳しい説明板があります。
五分市駅は、



化学や製紙工場の運搬用引き込み線が何本もあって、
嘗ての繁栄がしのばれます。



五分市駅を出ると南越線廃線跡は大きく左カーブし、(^^)
北北東方向へ。上記主要道を再び渡り・・、



更に北北東へ、やがて道なりに右カーブし東進。




やがて左手に見えたのが南越線『粟田部駅』跡です。
今はコミュニティーセンターと公園になっています。



1971年9月、粟田部〜戸の口 間の廃止後はこの場所で
折り返し運転をしていたそうです。



粟田部ー岡本新 間の南越線廃線跡の、
東南斜め方向の 痕跡は残ってなさそうです。



南越線『岡本新駅』跡方向を望む。




現在は”和紙の里”の施設が並ぶ『岡本新駅』跡地。
駅はめずらしいスイッチバック方式だったそうです。



スイッチバックを戻り『定友駅』方面へと向う北進の鉄路の、
現在の通りからの入口を望む(緑建物左手)。



ここからは粟田部駅跡を遠く左手に廃線跡は北進・・、



ほどなく推定、南越線『定友駅』跡付近に到着です。



定友駅跡を通過あと、しばらく進むと
左手の”三角?山”が最も接近する地点に・・。



このあたりが南越線『野岡駅』跡、と考えられます。




野岡駅跡を抜けると左手の山が遠のき田園が広がり、
↑左手前方は黄金色の麦畑?、右手前方には集落が↑。
この右手前方が南越線『庄境駅』があったあたりか?。



その『庄境駅』跡付近南西側、黄金色の麦畑越しに、
”三角山”を振り返り見る。




そして程なく右手前方に有名な、
南越線『赤坂駅』跡が見えて来ました。
現在は「集落センター」となっています。



そして、赤坂駅跡から一筋東の通りにあります、
「赤坂公民館」に掲げられていた、
これまた有名な・・・、



”赤坂町消火栓配置図”は、
残念ながら新しい絵に変わっていました。(^^;



そして、いよいよ赤坂駅跡からあと一駅、
終点の戸の口駅跡をめざし真直ぐ北進します。



やがて現北陸自動車道鯖江インターより
東に延びる県道を越えると、



南越線の終着駅があった、
鯖江市の戸の口町に到着です!。o(^o^)o



福井鉄道 南越線は、
昭和46年(1971)9月1日、先だって粟田部駅よりこの『戸の口』駅間が廃線となりました。
南越線『戸の口』駅跡地は↑写真の運送会社になっているそうです。
また開業当初はこの戸の口駅から国鉄鯖江駅までの延伸計画もあって、
戸の口駅構内の先の軌道は鯖江駅に向って西(左)にカーブしていたそうです。(^^)/



平成三十年 初夏五月




と言う事で、南越線の延伸計画にあった、
戸の口駅跡から現JR鯖江駅までの経路を妄想探索してみました。(^^)/


まずは、戸の口駅跡の会社の西側に回り込み、




西向きの農道から、
JR鯖江駅をめざし出発です!。(^o^)/



ひたすら真直ぐ西進して、
現在の東陽中学の敷地の南端?をかすめ、
直後に一つ目の川を渡り・・、




農道から、先程の戸の口駅跡手前で交差の
北陸道鯖江インターから東進の県道に合流。
やがてその先趣きのある橋に遭遇します!。



橋上からは遠く南に日野山が望め、
先程巡って来た”電田ひろば”の先に架かってた
”鉄道遺産橋梁”と同じ浅水川を再び渡ります。



そして仮想の南越線軌道は、
北陸自動車道鯖江インター南をくぐり、
鯖江駅の北東側(現柳町付近)へ到達します。


その先、鯖江インター付近からJR鯖江駅方面への、南越線仮想経路を記してみました。(^^)/


もし南越線の戸の口〜鯖江 間が開通していたならば、
”南越線の(仮想)鯖江駅”は、『社武生駅』と同様旧国鉄の駅東側に建設と考えられ、
ちょうど福武線の『武生新駅』にあたるのが、鯖江駅の西側の”鯖浦線鯖江駅”・・、
といった位置関係になるはずだったのでは?ないでしょうか。(^^;



「三里山」を背景に、現JR鯖江駅の東側の”南越線(仮想)鯖江駅”予定地あたりを望む。(^^ゞ

この国鉄鯖江駅は、”(仮想)南越線鯖江駅”や”鯖浦線鯖江駅”から
それぞれに乗り換える人々でおおいに賑わっていた事と思います。o(^o^)o





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