昭和48年(1973)9月29日、 最後に廃された鯖浦線の、水落駅から西田中駅までを辿ってみました。 | |
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水落駅を出発!。 |
嘗ての福武線と鯖浦線の連絡線へとむかいます。 |
今は駐車場となっている、 嘗ての構内操車場を左に見ながら右にカーブ、 |
旧国道8号線の高架を潜ります。 |
更に心地よい右カーブを感じながら野球場の北側へ。 |
程なく嘗ての鯖浦線の本線と合流です。 |
その後鯖浦線跡は真直ぐに西へGO WEST!!。 |
やがて鯖浦線は西縦環線道路(現国道417号)と交差。 西縦環線の全線開通は1972年の10月20日だったので、 この鯖浦線との交差には踏み切りがあったのでしょうか?。 |
西縦環線を渡るとここからの鯖浦線軌道跡は、 ”自転車歩行者道”として整備されています。 |
そして緩やかに坂を登っていくと・・・。 |
日野川に架かる橋に遭遇。 今はコンクリ製の”平成橋”となっていますが、 |
鯖浦線当時は鉄橋が架けられていました。 |
東を振り返れば、嘗ての鯖浦線が東鯖江方面から登ってきた 西山の北端やその奥には、まだ雪を頂く奥越の山々が 西からの日の光に白く浮き上がって見えます。 |
また同じ橋上よりの”南東”方向には日野山も見え、 この少し高い所からの360度の眺望は なんとも気持ちの良い景色です。 |
橋を渡り左に桜並木のあるなだらかな坂を下りると・・、 その桜の先にホームの跡らしき段が見えて来ました。\(^_^)/ |
ここは鯖浦線「越前平井駅」跡の”休憩広場”です。 駅舎があったのは、右の建物のところのようです。 |
駅名標にみたてた記念の看板碑があります。 |
当時と桜の木の位置は変わらないようですが、 背丈は小ぶりになっているようです。 |
”ゑちぜんへゐ”駅を出て真直ぐ西へ。 |
しばらく進んで左に見えて来る小学校の北側も通り抜け・・、 |
田園の真中に!、軌道跡はただひたすら真直ぐです。(^^) |
南西の日野山は遮るものもなく、田んぼには白鷺だけが・・。 南越の福井平野のド真中いるようです。 |
田園地帯を抜けると右手に桜が見えました。 |
ここは鯖浦線「川去駅」跡です。 |
越前平井駅跡にあった駅名標風の看板碑は、 この川去駅跡では無くなって?いるようです。 |
そして、鉄路跡は更に真直ぐ西へ。 |
と、暫く進むと、なんと!軌道跡は右斜め方向へ、 水落駅を出て最初の右カーブから始めての変化です。 |
ここから鉄路跡は”西田中”をめざし、 これまでの西から北西へと向かいます。 |
北西に進路をとってからはまたまた直進です。 |
やがて日野川を渡ってからここまでで初めての中河川に遭遇。 小さな橋梁があったと思われる所をコンクリ橋で渡ります。 |
更に先に行きますと今度は大きな河川の堤防が・・、 道は堤防上を右に曲がっています。 |
鯖浦線はここを斜めに橋があったそうで、 前方に見えるサッカー場方向へ直進していたようです。 橋梁の痕跡は全くありません。 |
サッカー場の向こう側に回り込んで来て、 先ほどの橋梁跡など進んできた南東方向を振り返る。 (中央に日野山が見える) |
ここから西田中駅跡方向の斜めの軌道跡は 全く残っていません。 (サッカー場北側から西田中駅跡の北西方向を望む) |
この後、鯖浦線は西田中駅をめざし、 進路を北西から再び西向きに舵を取っていました。 現在は宅地や田の脇をあみだクジ状に北上西進します。 |
そして、軌道跡らしき道路を西に進みます。 すると左前方に桜の木が見えてきました!。 |
これぞ、今は”バス・ターミナル”となっている、 かつての鯖浦線「西田中駅」跡です。 ここにも当時の桜が一本残されています。 |
当時の駅舎は線路の北側で北向き、 写真奥が駅前の繁華街だったと思われます。 |
1972年10月11日に西田中〜織田間が廃線になったあとは、 ここ西田中駅で水落からの電車は折り返し運転を行っていたそうです。 しかしそれもつかの間、1973年9月29日に水落〜西田中間も廃線となりました。m(_ _)m | |
私的には、現役時代の西田中駅付近を訪れた事はなかったのですが(車中通過は有り)、 今回ほぼ40年ぶりに、レンタサイクル(アシスト付(^^)/)で駅周辺まで探索してみました。 豪雪あとの、平成三十年 春三月 |
更に西田中駅跡から佐々生駅方面へも、少しだけ進んでみました。(^^)/ | |
西田中駅跡北の道路を西へ。 |
左手に庁舎の建物が見えてきたら、 |
次の交差点を左(南南西)へ曲がり。 |
逆S字カーブを過ぎますと・・。 |
実際の軌道のRは、 逆S字の少し西、写真下側の田の中か? (逆S字南から北北東方向の庁舎建物を望む) |
その後はほぼ真直ぐ、真直ぐ、佐々生駅方面へ・・。 |
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そして、軌道は再び西へ向かい宮崎村、更に最後は北上し織田へと続いていました。
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更に、織田から山を越え急降下し、路線名由来の海岸部の”四箇浦”へと繋ぐ計画でした。 |